徳を積む日、ブータン、中国、ベトナム、韓国のお正月
1月28日のことになりますが、ブッダガヤで二度目のお正月のお祝いをしました。












日本ではどうなのか?

毎年恒例ですが、1月1日は、日本など西暦を使う国の新年。
そして、1月28日は、中国やベトナム、ブータン、韓国の国のお正月。
各国のお寺では、お祝いの法要が行われ、ブッダガヤに住んでいる各国の人々は、自分の国のお寺やマハボディーテンプルへ新年のお参りに行きます。
その新年のお祝いの法要に合わせ、お坊さんを呼びお布施をし徳を積む国もあり、今年はベトナムとブータンのお寺に招待され行ってきました。
ベトナムのお寺は、ブッダガヤのお寺がたくさんあるエリアから、少し離れた村の中にあり、仏心寺からは、歩くと20分ほど
1990年代から少しずつ土地を買い、今では広大な土地の中に、敷地内は大きなベトナム式の塔や、本堂、メディテーションホール、食堂などがあり、今も少しずつ建設中ということです。





庭には、象や猿のおきものも置かれ、大通りから離れているので、大変静かな場所。


各国の僧侶が10人ほど集まり、ミャンマー、チベット、日本、そして、ベトナムと順番にお経を読経しました。
各国それぞれの唱え方、音程、言葉が違うお経のあげかた。
一つの国から別の国に伝わり、そして、その国独特のお経のあげかたに変わって定着していったことを考えると、大変長い時間仏教が大切にされてきて今に残っていることを実感し、そしてそれを解いたお釈迦様の偉大さを感じます。
お経が終わると、食事の供養をいただき解散。
私は、そのままブータンのお寺へ移動。(ちょっとよくばりですが。。。)
ブータンの中でも、東ブータンが今日お正月だということです。
ブータンの民族衣装に身を包んだ人たちが本堂へ行き、手を合わせ、それぞれの仏様の前にお金をお布施していき、最後は、入り口にあるお布施をするカウンターでお寺に対するお布施という流れ。
多くの子供たちが両親や両祖父母に連れられ、一緒に回っており万国共通だなと親近感がわきました。



この日は、お坊さんたちもお休みで、貴重なお休みを若いお坊さんたちは、サッカーをして楽しんでおり、大きなかけ声が響き、それを見守る形で、シニアのお坊さんたちが周りで眺めている風景は、インドの喧騒からかけ離れ、ほっとする雰囲気が流れていました。
そして、食事の時間になると、参拝者全員で食事です。
もちろん、ブータン料理。
すべてお布施で賄われ、個人、もしくは家族などがスポンサーとなり、全員分のごはんをお布施をします。
今回も、ある家族と親戚がみんなでお金を出し合い、食事の布施をされていました。



徳を積むという文化が根強く残っている証拠ですね。
ごはんの席でたまたま隣になったドイツの方と結婚した50歳ほどのご婦人と話をしていたら、同じく布施の話になりました。
ブータンでは、僧侶が3年3ヶ月3日、森などにこもる修行がある。
その際には、一般の人たちが毎日食事などを届け、修行の助けをする。
それが布施になり徳になるから、みんな率先してする。
もちろん、普段のお布施や今日のごはんも。
その際には、一般の人たちが毎日食事などを届け、修行の助けをする。
それが布施になり徳になるから、みんな率先してする。
もちろん、普段のお布施や今日のごはんも。
日本ではどうなのか?
という質問になり、
「今の日本では、なかなか難しい」
と話すと、
「ドイツの旦那も布施を理解してくれない。物質的な考え方では、布施を理解できない」
「ドイツの旦那も布施を理解してくれない。物質的な考え方では、布施を理解できない」
ブッダガヤでは、マテリアリズム(物質主義)の話がよくでます。
僧侶・信者さんともに、この話題がよく話題に上がり、物質的な幸せでは本当の幸せを得ることができない。
そこから離れ、仏教の教え・慈悲の考え・そして、布施をして徳を積むということで、来世につながる幸せを得ることができる。
実際、物質的な幸せでは満足できず、そこから離れ、仏教的な生き方を選ぶ人によくであいます。
毎年仕事の休みを利用して修行しに来る方も、たくさんいます。
仏心寺に来る方もそうです。
仏心寺に来る方もそうです。
ごはんを食べながら、改めて自分自身の行いや、振る舞いのごはんの裏にある、様々なつながりを意識するお正月になりました。
日本語でいうと「おかげさま」ですね。

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